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石原銀行と足利銀行:2008年3月17日街頭演説

街頭演説
鳴り物入りではじめた東京都の石原銀行(新銀行東京)がご承知のとおり、沈没寸前だそうです。
その一方で、栃木県では足利銀行の受け皿が野村グループに決まり、ようやく新しい形が出来上がってきました。
このふたつの事例は、私達に権力のあり方を考えさせてくれます。
一般に、平時では金融機能は市場原理に任せておけば大方良しとしたものですが、異常事態や非常時には、権力が全面に出て事態をコントロールさせなければならないこともあります。
この点からいいますと、石原銀行は中リスクを取れない異常事態が続く日本の金融機能の欠陥を補うという当初の目的からすればそれなりに意味がありました。
また、足銀の場合は前の経営者の経営判断の誤りにより、倒産寸前に陥り、まさに非常事態に陥っていたということを勘案すればそれなりに意味がありました。
その後、それぞれどのような進展を経たでしょうか。
まず、石原銀行。
今日の読売新聞でも、
「新銀行東京、知事提唱の芸術事業から絵画購入。
 東京都が設立した新銀行東京(千代田区)が2005年秋、石原慎太郎知事が提唱した文化振興事業の「トーキョーワンダーサイト(TWS)」を通じて、3枚の絵画を計約52万円で購入していたことが16日、読売新聞の調べでわかった。
 知事本人が銀行に購入を持ち掛けていた。TWSの事業責任者は知事の四男の友人で、新銀行が美術作品を購入したのはこのケースだけだった。購入時は、すでに不良債権が発生し始めており、石原知事と新銀行との関係が改めて問われることになりそうだ」
という記事が出ていましたが、これに限らず彼は権力を乱用しすぎたきらいがあります。
奢れるもの久しからずということでしょう。
その石原銀行は、発足後わずか3年で音をたてて崩れようとしております。
まさに「志は良かったが、実行した人がだめだった」としかいいようのない人災です。
この問題の核心はそこにあるわけで、にもかかわらず都議会で当時の頭取を招致しないというのは一体何なのでしょうか?
銀行の大株主として、知事も議会も責任を共有し、事実関係をもっと明らかにして事態を打開しなければならないはずなのに、なんという責任意識の欠如でしょうか。
特に知事については(親戚の大親友なので言いたくはありませんが)、奢った気持ちが修正できずに開き直っているとしかいいようがありません。
そもそも権力は抑制的に使われるべきものを、彼の場合は、高い志を隠れ蓑に都の税金を預かる株主としての責任を軽視し、他人に丸投げしてこうした事態を招いたと言われてもしかたがないでしょう。
それと比べて、国有化された後の足利銀行は、4年の歳月を経て新しいステップへの道筋が見えてきました。
しかも国民負担は、ほぼゼロになるのではないかとさえ言われているほどです。
これは、ひとえに池田憲人頭取の手腕に負う所が大きかったと思います。
私は、県議会の立場でこの案件に関わらせていただきましたが、発足当時から池田頭取の評価は高いものがあって、まさにその期待通りのマネジメントをなさったということに敬意を申し上げたいと思います。
同じ、”公”が関与した銀行に関係する問題処理でも、大きく明暗を分けてしまうのはなぜなのでしょうか。
ひと言で言えば「何をするかも大事だが、誰がするかはもっと大事」ということです。
権力という魔物の特性をよく理解して、当事者にそれを使いこなす能力が無ければうまくいくものもうまくいくはずがありません。
要するに、能力のない人に任せればそういう結果が出るし、能力のある人に任せればまた違う結果が出るということです。ちょうど会社の命運は常に社長が握っているように、です。
池田頭取が、今度は石原銀行の再生に呼ばれる日が来るのではないか、という話が冗談には聞こえなくなってきました。

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