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12、自由・公平・チャレンジ精神(2005年)

これからの日本の社会を形作る上で、大切なキーワードは自由・公平・闘争心(freedom,fairness,fighting-spirit)の3Fであると思います。
(1) 自由であって自由でない日本
言うまでもなく、「自由主義」というのは抽象概念です。
手で触ったり、食べたりすることはできません。「この自由主義お買い得ね」とか「この前食べた自由主義は最高だった」などというセリフは通常聞くことはありません。
自由主義であれ社会主義であれ、このような抽象概念を持ち出されると、人は警戒したり無関心な態度を取ることが多いものです。
「何やら難しそうな話だな」、「明日の子供のお弁当には関係ないわ」、「ジユウシュギ? それより問題は今のこの仕事をどうこなすかってことだ!」となります。
抽象的で一見高度に見える概念を持ち出された時は、単純で身近な例で考えた方が間違いは少ないものです。大きいことは小さく考える、小さいことこそ大きく考えるのがコツです。
そこでこの自由主義ですが、あなたは次のような社会は望ましい社会だと思いますか?
1.全員がルーズソックスをはく社会
2.全員がサラリーマンをする社会
このような社会は自由主義社会とは言えないことは明らかです。ところが日本社会はいつの間にかこのような性質を強く帯びた社会になってしまっており、このことが日本社会に元気が乏しい理由ではないかと私はにらんでいます。
少し滑稽であり、また気の毒でもありますが話はこういうことです。
Aは服装の自由に関連します。
なぜ、日本国の高等学校の女子生徒は、そろいもそろってあのようなスタイルになってしまったのでしょうか?
なぜ、役所の女性だけ決められた制服を着ているのでしょうか?
なぜ、会社のOLは本来貴族の旅行用として考案されたフランスの特定企業のバックを、みんな一律に満員電車の通勤用として用いているのでしょうか?
「リクルートルック」と称するあの棒を飲んだような硬直的な服装は一体誰が決めたのでしょうか?
民族衣装や軍服を除けば、このような画一的なファッションで塗りつぶされた国は、世界200カ国の中でも極めてまれです。
Bは職業選択の自由に関連します。
なぜ、多くの若者たちは自らの意向・適正を深く内省することなしに、雪崩を打ったようにサラリーマン養成所たる大学や専門学校に殺到し、やがては入社試験に殺到し、ひいては社内の「どんぐりの背比べ競争」に参画するのでしょうか?
なぜ、世間はそのような1種類の人生行路のみをまっとうな人生と認識するのでしょうか?
大学で理論物理学の博士号を取ったが、今は鷹匠をしている人間はダメなのでしょうか?
また次の場合はどうでしょう。
C 観光地で、少しでも事故が起こりそうな可能性のある場所には鉄柵を張り巡らせている国 これは自由主義の前提である自己責任と関連します。
私の経験ですが、アメリカの海岸で埠頭の入り口にこういう注意書きが書いてありました。
「Enter at your own risk」(自分の責任でお入りください)
日本の同じような場所には、入ることさえできないようになっているか、鉄柵でがんじがらめになっているか、警備員が配置されていたりします。行政側の事なかれ主義がそうさせていることは容易に想像できます。
これでは個人がいつまで経っても自立できないのではないでしょうか。レジャーという私的な物見遊山にさえ行政側から過保護にされ、それを当然視するのがいいのかどうか、疑問のあるところです。
これらの点は自由主義などという大きなこととは次元が違いすぎると思うかもしれません。しかし先にも記しました通り、小さなことにものごとの本質が宿るのです。
自由主義とは平たく言えば、選択の自由とその多様性をお互いに認めようじゃないかということです。ルーズソックスをはきたければはけばいい、ただし、はいていないから仲間はずれにするのは間違いだということです。
観光地ではどこにでも入りたければ入って結構、そのかわり、入った時の責任は自分で持ちなさい、ということです。
我々もそろそろ周囲にあわせるだけの努力はやめましょう。人と違っていて結構、むしろ違っていることにこそ価値があるのです。そして自分の選択には責任を持ちましょう。また他人の選択の幅を狭めたり、必要以上に干渉するのはよくないことだと理解(しり)ましょう。
そうすれば日本社会は今よりもっと自由になります。自由になれば自然に元気が湧いてきます。元気になればいろんな創意工夫が出てきます。おもしろい人が増えてきます。こんな人もいる、あんな人生もある、今は調子が出なくても、がんばればチャンスは十分にある、となります。
さらにいえば自由主義でいけばどうなるでしょうか。女性は家庭から自立できる(離婚をするということではありません、子供の成績や夫の出世だけでない自分の人生も大事にするという意味です)、男性は会社から自立できる(会社と適切な距離をおくことができる)、地方は国から自立できる(自治体は失敗を恐れず汗と知恵を絞りましょう。国は過保護をやめ、財源とともに権限を委譲しましょう)ようになるのです。
今までのあまりに規制された国のシステムを見直し、もっと自由主義を謳歌してみませんか
(2)公平のようで公平でない日本
大変申し上げづらいことですが、今もって具体的な改善効果が出たという話は聞きませんのであえて記しますが、個人(世帯)が国民健康税を滞納しても、また市営住宅の家賃滞納問題にしても(ごく一部の方ではありますが)、あまりペナルティを受けることなく、行政サービスは結果として平等になされています。
もちろん真の意味での弱者の方であるならば、一定の配慮があって当然ですが、実際はそういう方だけではないようです。
つまり、納めなくても行政サービスは平等ということで行政をあてにし過ぎてしまう傾向が見受けられますし、逆に言えば今の制度は滞納を助長するような現象を招いているのではないかと思わざるをえないところがあります。
また、自治体においても、自分たちの集めたお金でやりくりするのではなく、子供が親からお小遣いを貰うように国の補助金や交付金をあてにして行政運営を司ってしまう傾向があり、文字通り3割自治を満喫してしまいがちであります。その結果、ちょうどぬるま湯につかるように当事者意識が希薄化してしまうのです。
そしてまた、国そのものにつきましても、湾岸戦争であれ、アフガンの紛争であれ、北朝鮮の問題であれ、イラク戦争であれ安全保障に関して国家としての主体的な意志を表明せず、ただひたすらに米国をあてにし、追随する立ち居振る舞いは、ひとつの独立国家としてふさわしい姿なのかどうか疑問です。一度、考え直す時期に来ているのではないかと思わずにはいられません。
総じて言えますのは、これまでの政治のあり様を意識の面からトータルで見直すべきということです。(一部の)住民が自治体、地方自治体が国を、国が米国をあてにし過ぎるのはいかがなものかと申し上げたいのです。
あてにし過ぎた結果が、「税金は納めないでも行政サービスは全て平等」や「自治体の補助金漬け」や「防衛問題への無関心」では国のシステムそのものが崩壊しかねません。
だからといって、「誰にも迷惑をかけてないからいいじゃん」と自己責任の意味を取り違えて、援助交際にはしる少女を認めるわけにいきませんが。
ともあれ自立と自己責任を前提にした社会システムの構築が個人にも自治体にも国家にも必要になってきたことは間違いありません。
(3)豊かさに安住してチャレンジ精神をなくしてしまった日本
今の時代の我々にはチャレンジ精神が欠けていると感じるときが多々あります。
とりわけ外国を訪れたときにひときわそのことを感じます。
最近中国大連市を訪れてきました。
そこで私が見たものは、まさに中国の活力そのものでした。わずか20年前に造成された開発区はいまや世界中の一流製造業の一台集積基地と化し、今やそのエリアだけで20万人もの人口を抱える都市になってしまったのであります。
それよりなにより驚いたのは、大連市中心部での市民の語学への向上心です。
その日はちょうど日曜日でしたが、市内の大きな公園の一角で大きな人だかりができているのです。何が行われているのか見てみますと、なんとカナダからの観光客に地元の中国人が英語で話しかけて、英会話の勉強を勝手にしているのです。
年齢はちょうど30代から10代まで、男女問わず、会話が途切れようものなら次は私とばかりに、会話に参入してくるのです。
そのやる気たるやすばらしいものがありました。我々日本人が過去に置き去りにしてきた大事なものをなにか見せられた思いです。
これはまさに健全なチャレンジ精神のひとつの発露であります。
そしてこれが発展を遂げるための大きな原動力であるということを、今一度思い起こしながら、精神面の意識改革をする必要性を感じずにはいられません。

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