1、足利の歴史(2005年)

投稿者: | 2007年9月28日

「足利は歴史上3度天下を取ったことがある」という話を聞いたことはありませんか。
私は何度となく耳にしたことがあります。
一つ目はご存知足利尊氏の天下統一による室町幕府。
二つ目は、フランシスコザビエルが坂東の大学と欧州に紹介した日本最初の総合大学「足利学校」。
そして三つ目は明治時代の繊維生産高日本一。
この3つを指してよくそういう話をする方がおります。
今回は、足利の歴史を語ることが目的ではありませんが、古からの足利市の歴史を知り、先人のご努力に敬意を表しながら、現在進行形の歴史を作るという職務である政治を語る上で、欠かすことはできませんので、この3点について簡単に振り返ってみたいと思います。
まずは、足利氏についてであります。
足利という文字の由来を遡りますと、古くは足鏡という言葉から来ているようで、それがこの界隈の土地の名として定着したようです。ちなみに足利市の広報誌である「あしかがみ」はこの言葉から取ったとのことです。
その後、平安時代後期から次第に源氏が勃興し、その中で清和源氏の流れを汲む八幡太郎義家がいわゆる前九年の役、後三年の役に出陣した際に下野国足利郡界隈を通り、後に下野守となり足利の地に私領を有しました。
その後、義家の3男である義国が領した下野国足利郡を開発し、足利庄、梁田御厨として統治しました。そしてその子義康(義国2男)のときにこの土地の名である「足利」姓を名乗ったのが、いわゆる足利源氏の始まりであります。義康の3男義兼は、足利氏の菩提寺である鑁阿寺を創建した人物です。
源頼朝の母親と彼の母親は叔母と姪の関係で、また妻同士は姉妹ですので、頼朝とは非常に近い関係にあり、鎌倉時代の政に大きな影響を与えていました。
ちなみに鎌倉時代というくらいですから当時の建物は鎌倉に多く現存しているのではないかと思いがちですが、実は鎌倉には鎌倉時代の建物は全く残っていないのです。幾多の戦火などで全部焼かれてしまったそうです。従って、関東地区で現存しているのは鑁阿寺内の3つだけしかありません。
その3つとは、鐘桜、大御堂、不動尊です。これらは幸いにも800年間に渡り、戦火や落雷・火災から免れることができたのです。
さらに、鑁阿寺には一級品の宝物が揃っております。
例えば足利尊氏寄進の香炉、義満寄進の花瓶をはじめ重要文化財クラスの宝物は、数百のオーダーで保存されています。
少し話しが横道にそれてしまいましたが、ともあれ足利源氏は時の執権北条氏との関係を深めながらも、代々足利家を維持し続け、遂に義兼からかぞえて6代目となる足利尊氏によって、室町幕府が開かれることになるのです。
足利尊氏が室町幕府を開き、200年余に及ぶ足利時代を築いたことはわが国の歴史の中でも特出すべきものがあります。
こちらは今更説明するまでもありませんが、概略記しますと、「当初の名前は足利高氏と称し、鎌倉幕府の有力者であった。そして後醍醐天皇が倒幕の兵を上げると、足利尊氏や新田義貞らがそれに呼応して、鎌倉幕府をたおした。そして後醍醐天皇による建武の新政が行われることになった。しかしながらそれはそれまでの武士の慣習を無視していたため武士の不満と抵抗を引き起こすことになり、尊氏は武家政治を再興するべく、後醍醐天皇を吉野に追い(南朝)、光明天皇をたて(北朝)ついに征夷大将軍に任じられて、京都室町に幕府を開いた」ということになるかと思います。
ちなみに尊氏が足利に赴いたことがあるかどうかは、史実としての証拠は何も残っていませんが、普通に考えれば、先祖の地でもありますし鎌倉にはいたのですから、鎌倉街道を通じて何度も足利を訪れたのではないかと推察できます。
そして戦国時代には足利長尾氏、そして江戸時代は戸田氏という歴代の”藩主”に足利の治世のバトンが受け継がれていきました。
さて、足利学校につきましては、その起源について諸説ありまして、今のところの有力な説として、奈良時代の国学の遺制説、平安時代の小野篁(おののたかむら)説、鎌倉時代の足利義兼説などがありますが、その信憑性は現時点では確証できるものはありません。
また足利学校が歴史の表舞台にでるのは、関東管領上杉憲実(室町時代)によって現在国宝に指定されている書籍が寄進され、庠主(学長)制度を設けるなどして学校を中興したことによります。
憲実は、1439年、初代校長として、鎌倉円覚寺の僧「快元(かいげん)」を迎え、学校を整備しました。学校の管理は禅宗寺院にならって禅僧が行い、授業では易学を中心に、占星学、医学、兵法、論語、漢籍といずれも当時実用的に用いられた実践的な教育を行っていました。
そして、イエズス会の宣教師「フランシスコ=ザビエル」から「板東の大学(ばんどうのだいがく)」と称され、西洋にも紹介されるほど、隆盛を極めたのです。
いずれにしろ足利学校の起源につきましては、いまだ断定するまでにいたらず、なぞを残しており、逆にそれが興味をそそるわけですが、その先は後世の歴史家の研究に委ねるしかありません。
また、中世の足利学校は当時一説には3000人の学徒を集めていたということであり、その呼び声は天下に響き渡っており、戦国時代には徳川家康、毛利輝元、武田信玄をはじめ多くの武将が足利学校の卒業生に合戦の是非を占わせていたのです。
そして江戸時代にも徳川幕府の保護を得て継続し、明治維新後、1872年に校務を廃し、学校は蔵書とともに栃木県にひきつがれましたが、のち足利町に返却され、1903年には学校跡に足利学校遺跡図書館が開設され、現在にいたっています。
次に明治に入りまして、足利市は繊維で隆盛を極めました。特に明治時代には繊維の出荷高は全国一となり、織物のまち足利の面目を躍如したのであります。
そうした繊維産業華やかなりし頃の明治維新を経た草創期の足利市において、忽然と「文化普及、風教改善、社会事業等への翼賛貢献したるため」に誕生したのが、わが国初のNPOといっていい「足利友愛義団」でありました。時に明治25年のことであります。
その設立発起人のひとりが、足利銀行の創設者でもある荻野万太郎氏です。
その友愛義団についてでありますが、彼の著作である「適才回顧録」によりますと、足利友愛義団の事業として
1.災救済事業
2.徴兵送別ノ新例及ビ戦時ニ於ケル士気ノ鼓舞
3.出征軍人ノ慰問及ビ血兵品ノ寄贈
4.戦役記念ノ桜ト名蹟保存ノ提唱
5.社会矯風公娼廃止運動及ビ両毛青年大会
6.産業ノ開発ト経済思想ノ普及
7.英語学校ノ創立及ビ社会教育
8.徒弟慰労会ノ開設
9.与論ノ先駆ニシテ且ツ地方ニ於ケル社会事業ノ開祖
10.徒弟ノ教育―足利友愛義塾
の10項目を挙げています。
これを見れば、足利友愛義団の姿が一目瞭然でありますが、特に5と7と10は特出されるものであります。
5は申し上げるまでもなく、当時は東北地方では特に、生まれたばかりの子どもを間引いたり、女の子は人身売買をして赤線で働かせたりするのが日常茶飯事に行われておりました。
話はそれますが、あの2.26事件の背景には、青年将校たちの姉妹や従姉妹が身売りに出され、農村部では疲弊を極めて生きるか死ぬかの状況に追い詰められていることからくる財閥や政治家への反発が起こした事件ともいわれておりますが、その行為そのものは自己陶酔的で支持できるものではありません。
足利友愛義団におかれてはその事件の40年以上前から、その公娼問題を真正面から取り上げて、廃止運動を展開していたわけで、当時の時代背景を踏まえれば、その取り組みには感心させられます。まさに足利人の良識のなせるわざであり、わが国初のNPOであるという形容がぴたりとはまります。
7についても、これからは国際化の時代であり、外国との交流抜きには考えられないという視点から、英語教育の必要性を唱えられました。
それから110年も経った現代において、太田市が使えない英語を教える教育より使える英語教育をということで、国語と社会以外は全部英語を使う小中学校を開校するする運びとなり、それに触発される形で、足利でも英会話を教える授業を導入し始めましたが、それと比較すれば、友愛義団の先見性には驚かされるものがあります。
もちろん小さいころから英会話を教えることに関して色々な意見があることは承知しておりますが、是非論を言う前に私はそういう太田市のような取り組みは率直に評価したいと思います。選択肢を提供するということは様々に相対比較する上からも、関して前に、日本語をしっかりと教える必要があるという意見
また10につきましては、友愛義団設立以来110年の歴史を刻みながら、通5丁目の友愛幼稚園として脈々と受け継がれ、現在進行形で今に活かされています。
足利の繊維産業が隆盛を極めたおかげで、こうした世界に冠たる足利友愛義団を生み出せたということこそ、足利の3度目の天下取りとして、誇りうるものではないかともいえると思います。
こうして振り返りますと、かつての足利市はそれぞれの時代背景の中でそれぞれに魅力があり、鎌倉から室町にかけては武将が拠点を構え、そして同時期には足利学校に学徒が集い、そしてまた明治から昭和にかけては裸一貫で一旗挙げようと若者が夢を持って足利市を訪れてきたのです。
アメリカンドリームならぬ足利ドリームともいうべき時代が足利には確かにあったのです。
それが今ではどうでしょうか。
かつて繁栄した時代がうそのように、静まり返ってしまっているではありませんか。
いくらお祭りが成功しただの何だのと大本営発表のようにいっても、閑散とした商店街の姿が今の現状を雄弁に物語っています。
私は、是非ともかつての足利を今に復活させたいのです。そして足利のプライドを取り戻したいのです。
かつて全国にその名をとどろかせた足利の再興、これが今を生きる我々にかせられた大きな使命であると確信します。

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