Home > 12の提言(2005年版)

3、道路と鉄道と下水道そして都市計画(2005年)

(1) 都市計画道路鹿島橋山下線(鹿島橋通り)とJRの立体交差
北関東自動車道の全線開通を目指して、ようやく渡良瀬川にかかる橋脚部の工事がはじまりました。
その自動車道の整備とともに、足利市にとって極めて重要な意味を持つのが鹿島橋山下線(鹿島橋通り)です。
現在の市の計画では、鹿島橋を北へむかって旧50号にぶつかるはるか手前で地下に入り、旧50号とJR両毛線の下をくぐって立体交差をして山下町側に抜ける構造になっております。しかしながらこれでは旧50号を利用する方にとっては、五十部から葉鹿方面に向かう際の右折が、または葉鹿方面から五十部方面に向かう際の左折が立体交差するところでできず、旧50号を利用する方にとっての利便性に寄与しているとは言いがたいものがあります。
また、山前地区は、旧50号とJR両毛線が近すぎるが故に、通行しづらく危険性の高い2箇所の踏み切りの問題を抜本的に解決する必要があります。
そしてさらには、山前駅。
ロータリーも満足につくれないぐらい駅前のスペースが狭く、利用者の利便性が十分に図られているとは言いがたいものがあります。
そうした山前地区のJRにまつわる様々な問題を踏まえて考えたときに、現状のようなJRの下を掘って南北に抜ける道路を作るよりは、JRそのものを高架させる方がベターであります。
(2)渡良瀬川堤防道路
これも図で説明しますと、渡良瀬川の左右両岸いずれも緑橋と鹿島橋の取り付け部を結ぶ道路はありません。
しかしながら、北関東自動車道太田インターチェンジからの市内中心部へのアクセスを考えれば、その堤防道路を作る価値は十分にあると思います。
(3)都市計画道路、7丁目大前線
これまで市としては、旧西小学校の前の通りから三宝院のわきを通りそこからトンネルで抜け、今福からさらにトンネルを経て五十部に抜ける道路が計画されていましたが、それを図の通りに、本城から西宮を経て今福そして五十部に抜ける形で計画変更するべく検討がなされた経緯があります。
しかしながらそれでは、新規でトンネルを3つも作ることになり膨大な事業費がかかります。さらにはトンネルを抜けたときの交差点に信号をつけなければならず自動車が信号待ちでトンネルの中に列を連ねるというのは、道路通行上好ましいものではありません。
また、投資対効果という合理性や差し迫った必要性があるならともかく、特に自然環境の良さを好んで移り住んだ西宮地区の住民に理解を得るのは、難しいと言わざるを得ません。
要するに、これでは何のための計画変更かさっぱりわからないのです。
そこで私は、対案として五十部から月谷に抜ける、足利の外環状線的な位置づけで計画変更したらどうかと申し上げています。
自動車社会になって以降、都市における道路に関しては、まちの中心部を抜ける幹線道路の重要性と同時に、まちの外周を回る環状線の重要性が認識され、全国主要都市においてその整備が進められてきました。
県内では、宇都宮、佐野、小山などでそれが顕著であります。
足利もその意味では、いずれ都市計画道路の変更をするのであれば、私が申し上げるような形で外環状線にしてしまえばいいのではなかろうかと思うのですがいかがでしょうか。
(4)群馬県側とのアクセス
もうひとつ、道路行政について触れさせていただきます。
ご承知の通り足利市は、市境の半分を群馬県側と接しています。それだけ歴史的にも地理的にもまた経済的にも群馬県側とはつながりが深いものがあります。
その一方で、いわゆる都市計画道路の計画は二桁国道の幹線道路を除けば都道府県単位でなされるのが一般的であって栃木県・群馬県両県にまたがる形では都市計画決定がなされず、結果として足利と群馬県側をまたぐような道路整備は思いのほか進みませんでした。西から順次指摘しますと、まずは小俣地区の旧50号線の県境の橋であります。
境橋といいますが、これは昭和6年に建設された橋ですが幅員が狭く、いずれ架け替えの必要性があります。しかしその話は一部では出されるものの一向に計画の遡上に上ってきません。おそらく、足利市と桐生市そして栃木県と群馬県の4者のからむ話ですから、行政圏が違うためなんとなく先送りされてきたのではないかとかんぐりたくもなります。
少なくとも仮に同じ行政圏内の橋であったならこれほど話が進まないということにはならないのではないかと思います。
同様に、葉鹿橋についても同じようなことがいえます。最近ようやく架け替えがなされ、随分と使い勝手がよくなり何よりでありますが、それまでの橋は群馬県側の方が広く栃木県側の方が狭いといういびつな橋でありまして、50年間?そのような状態が続いていました。従いましてその架け替えの必要性はかねてより指摘されていましたが、これも結局栃木県と群馬県にまたがる橋であったがゆえに、ひとつ余計な根回しをしなければならずロスタイムが生じてしまったという感を強く持ちます。
次に鹿島橋通りはどうでしょうか。
足利から鹿島橋を渡って南に下りますと片側一車線のまま50号バイパスに当たります。それを越えますときれいに整備された片側二車線の道路になり、その違いはあまりにも対照的です。
そのそばには北関東自動車道の太田インターチェンジが予定されているのですから、本来50号バイパスから北側も渡良瀬川をはさんで足利市山前地区という住宅密集地が構えているのですから片側二車線の道路として整備されてもおかしくないのですが、鹿島橋を境に栃木県と群馬県の県境があるが故に、連携がうまくとれず、結果として都市計画道路としての計画決定をすることができないのです。
●県境ゆえの不利益の解消のため栃木県が群馬県に補助金を!
50号バイパスから北側は群馬県にとってはとかげのしっぽのような感覚なのかもしれませんが、足利市にとっては太田インターチェンジへの極めて大事な道路です。群馬県の意向はどうかわかりませんが、場合によっては鹿島橋南から50号バイパス北側の4車線化実現のために、栃木県民である足利市民の利益を鑑みて、栃木県が群馬県に補助金を出してもいいのではないでしょうか。
そのくらい発想を変えた大胆な提言をしなければ、県境をまたぐ道路の整備は遅々として進まないのではないかという危機感を覚えます。
これは、国道407号線、足利千代田線、国道293号線の南下路線などについても同様のことがいえます。
特に、国道407号線(足利太田街道)と122号線の交差点は、太田方面に向かう際に常時渋滞に見舞われているところであり、立体交差の必要性は論を待ちません。
ですから足利市民や太田市の足利よりの住民の方々にとっては優先順位の高い案件なのですが、太田市全体そして群馬県全体を見渡すとどうもそうではなくなってしまうようで、こうした事態を打開するためには思い切って、その立体交差のために栃木県が補助金を出すということも検討していいのではないかと思います。
ここで申し上げたいのは、これまで行政圏の違いにより、足利の場合群馬県側とのアクセス道路の整備が十分にできず、ことのほか不利益を被ってきたわけです。それと比べて、同じ群馬県内の前橋市と高崎市はなんと片側3車線の広い道路が走っているではありませんか。足利市と太田市の距離より、前橋市と高崎市の距離のほうが長いのに、同一県内ですとそういうことができてしまうのであります。
この弊害を改めることが、足利にとって極めて重要な課題です。
●公共事業についてひとこと
「その施設は私が建てた」とか「あの道路は私がやった」など、とりわけ選挙中などに誇らしげに言う政治家がいます。
同業者としてそう言いたくなる気持ちはわかりますが、これは申し上げるまでもなく「あの道路はみなさんの税金を使ってやらせていただいた」という言い方が正確です。
また、行政の行う事業を再評価するという視点からこのことを考えますと、「あれは私がやった」よりむしろ「あれをやらせていただいた結果、納税者にこれこれこういうメリットが提供できている」ということを語るべきだと思いますし、また一方で、デメリットが生じているのであれば「今後どのようにそれを反面教師にして生かしていくか」という話をするべきと思います。
これがいわゆる「事業再評価システム」の中の大きな柱である説明責任といわれているものです。そこではもちろん政治家の手柄は二の次になります。
また財源の面から言っても、国・地方問わず巨額の借金を抱えているわけですから、より一層の効率的な事業展開を真剣に考えなければなりません。従って、どのような事業であれ「あれは私がやった」で済まされる話ではないのです。
まさにその意味で、「あれは私がやった」という手柄告知型の政治の虚を見抜き、「何がこれからの政治に求められているのか」という視点から、自のフィルターを通して冷静に判断をする心眼を磨いていきたいと思っています。
(5)下水道
●下水道
足利市の下水道事業は、近年普及率の全国平均達成を目標に精力的にはじまりました。
ちょうどバブル崩壊後の景気低迷を受けて、政府は何度となくケインズよろしく需要喚起策を講じ、公共事業の積み増しを行ってきましたので、そうした流れを受けて足利市は県内平均より大幅に後れを取っていた下水道普及率を上げることを錦の御旗に、国庫補助事業である下水道事業の大幅な積み増しを一気に行ったのであります。
その結果、普及率は上がったものの、様々な副作用も発生しました。
そのひとつが、累積債務の増加です。
足利市の借金にあたる市債(借入金)のうち、一般会計分の地方債残高は、ここ数年の歳出抑制の努力により、伸びが鈍化していますが、公共下水道事業分については、わずか5年で2倍に達しております。
結果的に、平成12年度末の段階で一般会計と特別会計を合わせた市債残高は、約1200億円を数えるに至りました。
企業の売上に相当する市の歳入トータルが約1000億円程度ですから、国からの交付税措置があり市の負担は実質軽減されるとはいえ、単純にみれば足利市は売上より借金が約2割も多い企業ともいえるわけです。
下水道事業は、本来受益者負担金や使用料によって収支が図られるべきにもかかわらず、収入におけるこれらの比率があまり伸びていません。
その分、税金でその赤字の穴埋めをすることになるのです。こうした状況は一刻も早く改めていく必要があります。
生活環境の改善や土地の価値の増加などを考えれば、下水道事業は合併浄化槽の導入と並んで必要なものではありますが、これらは財政が健全に運営されればこそできる話であります。
(6)景観条例の制定を
●風景が語るまち
河南地区にあるホテルの最上階のレストランから渡良瀬川をはさんで市内の中心部を眺めると、その美しさに圧倒されます。
足利はよく小京都といわれますが、特に河北地区は京都のように景観条例を整備して、魅力ある景観形成に努めるべきと思います。
具体的には、建物の高さはここまでといった一定の基準を設けた形にすることが望ましいのではないかと思います。

2、人が流れない足利(2005年)

「足利のどこが問題なんだと思う?」
ふと私の知人からそういう問いかけを受けたことがあります。
それに対して私は、「ひとことで言えば人が入れ替わらないところ。街全体が川の本流でなく、傍流どころか滞留になってしまっているところに問題の本質があります」と申し上げました。
過去を遡れば、足利が隆盛を極めていたときは、鎌倉時代にはばんな寺を中心に人が集い、室町時代には足利学校に学徒が学び、明治時代から昭和初期にかけては繊維で全国を席巻していたわけであります。
ところが今はどうでしょう。
人は流出する一方ではありませんか。
結果として、街に住むひとが固定してしまい往年の活力が失われてしまっているのです。
要するに早い話が、足利の抱える大きな問題として真っ先に浮かぶのが人口問題ということです。
足利市の人口は平成2年をピークにしてどんどんと減少傾向をたどっており、県内他市と比べましてもトップクラスの減少数です。このままで推移しますと、3、4年後には、人口が15万人台に減ってしまうことになります。
それでは困るのです。
理由は簡単です。益々お金が廻らなくなって、地域経済が悪化し、足利の活力が減退してしまうからです。
本市では平成2年から平成12年までの10年間で人口は5167人減っています。仮に少なく見積もって年間一人当たり50万円(月に4万円程度)市内で消費するとして計算すると、なんと10年前と比べて年間25億8350万円のお金が市内から無くなっているということになるのです。
これは市民の納めた地方税約209億円(平成12年度)の約12.4%になります。
重い数字です。
毎年毎年人口が減少し、借金の返済額が増え、自主財源が落ち込みつつある中で、足利市として今何をなすべきか。答えは自ずと明らかでしょう。
また、街は常に人が入れ替わってこそ、活力が創出されるものです。川の流れに例えるならば、川は流れてこそ清らかで健全な姿を保つのです。街も同じで、人が流れ入れ替わらなければ、社会の序列が固定されてしまい、その結果、癒着やなれあいそしてよそ者を排除し、内向き思考に陥るといったマイナス面ばかりが目立つようになってしまいます。
近在でいえば太田市や小山市そして伊勢崎市を見れば明らかです。人が増え、人が入れ替わることによって街の勢いを感じるではありませんか。
足利市も人が増え、入れ替わる仕掛け作りが急務です。
そこで、人口問題への取り組みとして、3つの視点から提案したいと思います。
(1)定住人口の増加策
●情報インフラの整備と地方分権(特に税制面)の推進をして、足利に本社(機能)の誘致を!
まず単純な疑問を呈しますが、なぜ企業の本社が東京になければならないのでしょうか?
一般的な企業の本社が東京に立地する理由は以下の3つです。
1. 国の権限を一手に牛耳っていた霞ヶ関や経済団体の本部がある。
2. 商法上、役員会議は全員出席が求められている等の理由で、アクセスのいい東京に立地せざるを得ない。
3. 人材が多い。
もしかすると、それに加えて東京に立地するのが経営者のプライドというのもあるかもしれません。
しかしながら、逆に言えばそうした点を解消し、東京に本社を立地させる必要性をなくせば、本社(機能)を地方に移転させることは十分に可能だと思います。
栃木県には「首都機能の移転」で相応に頑張っていただくとして、足利市はむしろ「本社(機能)の移転」というコンセプトで取り組んでみてはいかがでしょうか。
1. 地方分権を押し進めて地方税(固定資産税や市民税など)の税率を決定する裁量権を中央から地方へ移譲する。
これをするには先に成立した地方分権一括法では不十分
2. 光ファイバーをはじめとする情報インフラの整備
3. 商法を改正しテレビ会議で役員会議が成立するようにする
4. 接続通信料の低減
上記の課題が解決すれば、本社機能の誘致は夢物語ではなくなります。
(2)交流人口の増加策
次に、交流人口の増加策について申し述べたいと思います。
●西の太宰府天満宮、東の足利学校として広くPRを!
結論から先に言えば、足利学校を、西の太宰府天満宮に対比する形で、学問の府「合格祈願ー学業成就」のいわば拠り所として戦略的にPRしていくことができないか、前向きに検討するべきと申し上げたいのであります。
現在足利学校の参観者は、平成14年度が170,378人、平成15年度が168,174人、平成16年度が159,085人で、一番入場者数が多かった平成3年が695,506人であったことを考えると、結果として太平記ブームで訪れた観光客をリピーターとして再訪させることができなかった、訪れた人から派生する広がりがなかったという現実が浮かび上がってきます。
これまで古沢巌さんのコンサートなどで単発的に成功はおさめるものの、参観者数で見る限り、市の戦略プロジェクト「足利学校こだわりのまちづくり」で十分な成果がだされたとは残念ながら思えません。
そこで、学問の府「合格祈願ー学業成就」としての足利学校の積極的活用です。
実は、これは目新しいことではなく、既に行われていることであります。従って私のオリジナルではありません。私が申し上げたいのはこれをコンセプトにもっと行政が有効なプロデュースとPRをしていくべきだということです。
しかしながらこれまではどうも行政の足が重くなかなか前に進みませんでした。理由はあります。いわゆる政教分離の原則があり、行政が太宰府天満宮のような役割を担うことはできなかったからです。
それでも私は、知恵を出してそれを乗り越えてやるべきだと思いますし、やる価値はあると思います。
例えば、
1.「西の大宰府天満宮、東の足利学校」をコンセプトにして合格祈願を全面に打ち出す
2. このコンセプトを基にして観光協会との密接な連携と積極的なPR
3. 織姫神社や足利七福神めぐりとの連携
4. 教育関係者、とりわけ学習塾との連携
5. “せきてん”が行われる11月を合格祈願のための特別な月にして、様々なイベントを組入れる
というような考え方で、進めていってはどうでしょうか。
その結果、中心商店街を桁違いに人が回遊するようになり、賑わいが創出されていきます。そうすれば、いわゆる空き店舗も活用する人が出てくるでしょう。またそれに伴い、店舗同士が「よりよいものをより安く」提供していい意味での競争が始まります。
さらには、足利市立美術館に相田みつをさんの常設展を用意できれば、受験を控えたデリケートな受験生の心を和ますことにもなるでしょう。
相田みつをさんの功績を足利市として称えながら、受験生にも街にもプラスになる取り組み方は十分にできると思います。
そうした施策の相乗効果で、足利学校を中心にした魅力の創出を図ることが、足利市の中心商店街の賑わいを取り戻すことにつながるはずであります。
ですから、定住人口が減り、交流人口が減るなかで、それに歯止めをかけて足利を活性化させていくためには、足利学校を単なる遺跡にしないで、学問の府「合格祈願ー学業成就」の足利学校として大胆に活用していくことをもっと前向きに考えるべきではないかと思うのです。
 
 
●低山ハイクのメッカに!
次に足利市の自然を活かした誘客施策を考えてみたいと思います。
ご承知の通り、足利には低山里山のハイキングコースが数多くあります。主なものだけでも小俣の石尊山周辺、織姫山周辺、毛野の大坊山周辺、富田の大小山周辺と4つあります。いずれもそれぞれに魅力があり、低山ハイカーの心を和ませてくれます。とりわけ新緑や紅葉の季節が人気で、多くのハイカーを見かけることができます。
私も学生時代、社会人の山岳会に所属しており、谷川岳の衝立だろうと穂高の屏風だろうと初冬の富士山だろうと、若さに任せてチャレンジしていましたが、今やそんな気力がよみがえるものではなく、心静かにファミリー登山が私にとっては関の山です。
そういう私のような多少山登りをかじったものからみても、足利市の山並みは中高年を対象にした低山ハイクの対象として絶好の環境にあると思います。
例えば、通7丁目の切通しの上に、それを横切るようにつり橋を架けて足利公園をスタートして北へ向かい、つり橋を渡ってさらに北上し両崖山に至り、さらに北上して大岩山や行道山へ向かっても構いませんし、踵を返して織姫神社の方に戻ってくるようにコース設定を取ることができます。
いずれにしろそれぞれの方の体力に応じたコース選択が可能であり、新緑の季節や紅葉の季節は、格好の観光スポットになるに違いありません。
後はプロデュースをしっかりと行うことです。
それには市と市民そして観光業者の3者の協力が不可欠です。
市と業者はもちろんですが、市民にも協力願ってホスピタリティ(観光客やハイカーを心からもてなす気持ち)をこれまで以上に意識していただくようにすれば、必ずや誘客数が増加していくのではないかと思います。
そして、それらを他の観光資源(例えば足利七福神めぐり)と有機的に結びつけながら、首都圏のハイカーをターゲットに北関東随一のハイキングコースとして整備することできるのではないかと考えます。
 
 
●河南商業集積施設を中心にしたまちづくりTMOの活用
佐野にイオンとアウトレットモール、太田にもイオンが進出し、大規模な店舗同士の熾烈な競争が両毛地区でも始まりました。
それに伴い足利の河南地区の商業集積地域も、相当な影響が出ているようですが、この競争は今始まったばかりであり、まだ決着がついたわけではありません。まさにこれからが正念場です。
本市の河南地区の商業集積地域の購買力は、年商300億を軽く超えるものがあり、佐野や太田のそれと比べて引けをとるものではありません。つまり、佐野や太田の箱の大きさには面的な大きさで十分対抗できるだけの力は持っているのです。
従いまして、足利としては、面的な魅力をいかに創出するかという視点から、まちづくりを考えるべきなのです。
例えば、TMO(タウンマネジメントオーガニゼーション)という新しいまちづくりの手法を導入して、商工会議所などとともにトータルで一層の集客がはかれるまちなみの形成に取り組むべきと考えますそのためにも河南地区のTMO構想及びTMO計画の作成を検討するべきです。
(3) 少子化対策
わが国の人口の減少は急速に進む見込みです。
国立社会保障・人口問題研究所は、低位推計でも2050年の出生率を1.1と想定していますが、もっと低下するのではないかと危惧する声も根強くあります(東京都の出生率は既に1.0)。仮に1.1だとしても2050年の人口は9200万人と、2000年の1億2700万人から3500万人減少し、さらに 2100年には4500万人を割り込む見通しになっています。
人口の増減は、経済の成長を図る上で、最大の要因です。
従いまして、わが国の極めて優先順位の高い課題は、人口の増加策ということになります。
そこで、少子化について興味深い2つの背景と3つの対策について申し上げたいと思います。
●2つの背景
1. 共働きほど、出生率が高い
私は、専業主婦の家庭は共働きと比べて子育てにかける時間に余裕がありますから、当然専業主婦の家庭の方が出生率が高いと思っていましたが、どうもそうではないようです。
理由は色々とあるようですが、ひとことで言えば専業主婦の場合は年中子どもと一緒ですから育児疲れしてしまうので、さらに子どもを作るという意欲が比較上少なくなってしまうのではないかと考えられています。
 
欧米では保育施設の整備など、子育てに関する社会的な支援体制が整っていますから、共働きでも十分に子育てができ、そうした傾向は一層顕著なのだそうです。
 
2. マインド効果
これは人間の心理的な効果ということですが、子沢山の家庭が多いほどその地域での出生率があがるという傾向が現実に出ています。「お隣でも3人育てているから、我が家でも3人育てられるわね」ということでしょうか。
●少子化対策の施策として3つの対策
申し上げるまでもなく、将来の最大の不安要因である財政赤字や年金問題を解消するためにも、有効な少子化対策を講じなければなりません。
その意味で、国の施策の方向性を、子育ての環境整備にもっとシフトしていく必要があると思います。
子や孫にツケをまわさないという決意で、少子化問題にも真剣に取り組んでいかなければなりません。
そこで「少子化対策の施策として3つの提案」について少し詳しくお伝えします。
1. 地域における子育て支援
子ども家庭支援センター、学童保育、クラブ活動など
 
2. 職場の意識改革と制度の充実
育児休業制度、多様な働き方の実現
 
3. 社会保障・手当て・税制面での次世代支援
医療制度上の配慮・児童手当・税制控除
1. 地域における子育て支援
一般に就学前の児童であれば、保育園などの受け入れ施設があり、これを効率よく着実に増やすことによって、環境整備は進みます。
栃木県の場合、その世代よりはどちらかといえば、入学後の児童の放課後のケアを、もっとシステミックに行える仕組みが急務です。
例えば、子ども家庭支援センター、学童保育、民間主導のクラブ活動などの取り組みを検討もしくは充実させていくことが重要です。
いわゆる社会保障給付費に占める高齢者関係給付費と児童・家庭関係給付費の割合を調べてみますと、なんと68.1%対3.5%とのことです。欧米では後者の比率は10%に達しており、日本は少なすぎます。
その意味で、保育園から小中学校の子どもたちに至るまでの地域における子育て支援等に力を入れるべきです。
2. 職場の意識改革と制度の充実
これは特に男性・女性問わず育児休業の取得の難しさをどう克服していくかということにつきます。(女性の職場進出の機会拡大、育児休業制度の拡充、多様な働き方の実現など)
3. 親の自立、社会保障・手当て・税制面での次世代支援
●親の自立
茨城県の調査では、夜間の救急で運ばれる乳幼児の治療内容を詳細に調べたところ、9割は軽症で、その多くは治療の必要さえいらないというものだったそうです。
いわゆる核家族化の進展とともに、子育てをする親の子育てに関する知識不足故に、夜熱を出したり咳き込まれたりしたときに、不安になり病院に駆け込んでしまいたくなる気持ちはわかります。しかし、それにより、本当に必要な人が夜間の救急で治療を受けられなかったり、その処置が遅れてしまったりということにもなりかねないのです。またそのコストは医療費負担として、国民に重くのしかかってくることにもなるのです。
従いまして、日頃から親が子育てに関して、もっと勉強するべきなのです。まさに自立と自助の精神にのっとり、無駄な医療費を削減して、本当に必要な子育て支援の施策に予算を厚くするべきなのです。
●社会保障・手当て・税制面での次世代支援
また、税制の控除や児童手当の拡充もさらに検討するべきです。
自由主義社会とは、行政の関与をできるだけ減らすということであります。
つまり、税金をいっぱい集めてそれを分配するというのではなく、特に子育てをしている人には、例えば税制の控除を行って、差し引き親の手取りを増やすべきなのです。
その増えた部分の使用する選択権は、その方にあるわけで、それがまさに自由主義社会の自由度を広げることになるのです。
それを一律、税金を集めるだけ集めて乳幼児医療費のとめどない無料化レースに拍車をかけて、将来の増税=大きな政府を思考するより、よほど理想的な話ではないでしょうか。
とにもかくにも、将来の最大の不安要因である財政赤字や年金問題を解消するためにも、有効な少子化対策を講じなければなりません。
その意味で、国の施策の方向性を、子育ての環境整備にもっとシフトしていく必要があると思います。

1、足利の歴史(2005年)

「足利は歴史上3度天下を取ったことがある」という話を聞いたことはありませんか。
私は何度となく耳にしたことがあります。
一つ目はご存知足利尊氏の天下統一による室町幕府。
二つ目は、フランシスコザビエルが坂東の大学と欧州に紹介した日本最初の総合大学「足利学校」。
そして三つ目は明治時代の繊維生産高日本一。
この3つを指してよくそういう話をする方がおります。
今回は、足利の歴史を語ることが目的ではありませんが、古からの足利市の歴史を知り、先人のご努力に敬意を表しながら、現在進行形の歴史を作るという職務である政治を語る上で、欠かすことはできませんので、この3点について簡単に振り返ってみたいと思います。
まずは、足利氏についてであります。
足利という文字の由来を遡りますと、古くは足鏡という言葉から来ているようで、それがこの界隈の土地の名として定着したようです。ちなみに足利市の広報誌である「あしかがみ」はこの言葉から取ったとのことです。
その後、平安時代後期から次第に源氏が勃興し、その中で清和源氏の流れを汲む八幡太郎義家がいわゆる前九年の役、後三年の役に出陣した際に下野国足利郡界隈を通り、後に下野守となり足利の地に私領を有しました。
その後、義家の3男である義国が領した下野国足利郡を開発し、足利庄、梁田御厨として統治しました。そしてその子義康(義国2男)のときにこの土地の名である「足利」姓を名乗ったのが、いわゆる足利源氏の始まりであります。義康の3男義兼は、足利氏の菩提寺である鑁阿寺を創建した人物です。
源頼朝の母親と彼の母親は叔母と姪の関係で、また妻同士は姉妹ですので、頼朝とは非常に近い関係にあり、鎌倉時代の政に大きな影響を与えていました。
ちなみに鎌倉時代というくらいですから当時の建物は鎌倉に多く現存しているのではないかと思いがちですが、実は鎌倉には鎌倉時代の建物は全く残っていないのです。幾多の戦火などで全部焼かれてしまったそうです。従って、関東地区で現存しているのは鑁阿寺内の3つだけしかありません。
その3つとは、鐘桜、大御堂、不動尊です。これらは幸いにも800年間に渡り、戦火や落雷・火災から免れることができたのです。
さらに、鑁阿寺には一級品の宝物が揃っております。
例えば足利尊氏寄進の香炉、義満寄進の花瓶をはじめ重要文化財クラスの宝物は、数百のオーダーで保存されています。
少し話しが横道にそれてしまいましたが、ともあれ足利源氏は時の執権北条氏との関係を深めながらも、代々足利家を維持し続け、遂に義兼からかぞえて6代目となる足利尊氏によって、室町幕府が開かれることになるのです。
足利尊氏が室町幕府を開き、200年余に及ぶ足利時代を築いたことはわが国の歴史の中でも特出すべきものがあります。
こちらは今更説明するまでもありませんが、概略記しますと、「当初の名前は足利高氏と称し、鎌倉幕府の有力者であった。そして後醍醐天皇が倒幕の兵を上げると、足利尊氏や新田義貞らがそれに呼応して、鎌倉幕府をたおした。そして後醍醐天皇による建武の新政が行われることになった。しかしながらそれはそれまでの武士の慣習を無視していたため武士の不満と抵抗を引き起こすことになり、尊氏は武家政治を再興するべく、後醍醐天皇を吉野に追い(南朝)、光明天皇をたて(北朝)ついに征夷大将軍に任じられて、京都室町に幕府を開いた」ということになるかと思います。
ちなみに尊氏が足利に赴いたことがあるかどうかは、史実としての証拠は何も残っていませんが、普通に考えれば、先祖の地でもありますし鎌倉にはいたのですから、鎌倉街道を通じて何度も足利を訪れたのではないかと推察できます。
そして戦国時代には足利長尾氏、そして江戸時代は戸田氏という歴代の”藩主”に足利の治世のバトンが受け継がれていきました。
さて、足利学校につきましては、その起源について諸説ありまして、今のところの有力な説として、奈良時代の国学の遺制説、平安時代の小野篁(おののたかむら)説、鎌倉時代の足利義兼説などがありますが、その信憑性は現時点では確証できるものはありません。
また足利学校が歴史の表舞台にでるのは、関東管領上杉憲実(室町時代)によって現在国宝に指定されている書籍が寄進され、庠主(学長)制度を設けるなどして学校を中興したことによります。
憲実は、1439年、初代校長として、鎌倉円覚寺の僧「快元(かいげん)」を迎え、学校を整備しました。学校の管理は禅宗寺院にならって禅僧が行い、授業では易学を中心に、占星学、医学、兵法、論語、漢籍といずれも当時実用的に用いられた実践的な教育を行っていました。
そして、イエズス会の宣教師「フランシスコ=ザビエル」から「板東の大学(ばんどうのだいがく)」と称され、西洋にも紹介されるほど、隆盛を極めたのです。
いずれにしろ足利学校の起源につきましては、いまだ断定するまでにいたらず、なぞを残しており、逆にそれが興味をそそるわけですが、その先は後世の歴史家の研究に委ねるしかありません。
また、中世の足利学校は当時一説には3000人の学徒を集めていたということであり、その呼び声は天下に響き渡っており、戦国時代には徳川家康、毛利輝元、武田信玄をはじめ多くの武将が足利学校の卒業生に合戦の是非を占わせていたのです。
そして江戸時代にも徳川幕府の保護を得て継続し、明治維新後、1872年に校務を廃し、学校は蔵書とともに栃木県にひきつがれましたが、のち足利町に返却され、1903年には学校跡に足利学校遺跡図書館が開設され、現在にいたっています。
次に明治に入りまして、足利市は繊維で隆盛を極めました。特に明治時代には繊維の出荷高は全国一となり、織物のまち足利の面目を躍如したのであります。
そうした繊維産業華やかなりし頃の明治維新を経た草創期の足利市において、忽然と「文化普及、風教改善、社会事業等への翼賛貢献したるため」に誕生したのが、わが国初のNPOといっていい「足利友愛義団」でありました。時に明治25年のことであります。
その設立発起人のひとりが、足利銀行の創設者でもある荻野万太郎氏です。
その友愛義団についてでありますが、彼の著作である「適才回顧録」によりますと、足利友愛義団の事業として
1.災救済事業
2.徴兵送別ノ新例及ビ戦時ニ於ケル士気ノ鼓舞
3.出征軍人ノ慰問及ビ血兵品ノ寄贈
4.戦役記念ノ桜ト名蹟保存ノ提唱
5.社会矯風公娼廃止運動及ビ両毛青年大会
6.産業ノ開発ト経済思想ノ普及
7.英語学校ノ創立及ビ社会教育
8.徒弟慰労会ノ開設
9.与論ノ先駆ニシテ且ツ地方ニ於ケル社会事業ノ開祖
10.徒弟ノ教育―足利友愛義塾
の10項目を挙げています。
これを見れば、足利友愛義団の姿が一目瞭然でありますが、特に5と7と10は特出されるものであります。
5は申し上げるまでもなく、当時は東北地方では特に、生まれたばかりの子どもを間引いたり、女の子は人身売買をして赤線で働かせたりするのが日常茶飯事に行われておりました。
話はそれますが、あの2.26事件の背景には、青年将校たちの姉妹や従姉妹が身売りに出され、農村部では疲弊を極めて生きるか死ぬかの状況に追い詰められていることからくる財閥や政治家への反発が起こした事件ともいわれておりますが、その行為そのものは自己陶酔的で支持できるものではありません。
足利友愛義団におかれてはその事件の40年以上前から、その公娼問題を真正面から取り上げて、廃止運動を展開していたわけで、当時の時代背景を踏まえれば、その取り組みには感心させられます。まさに足利人の良識のなせるわざであり、わが国初のNPOであるという形容がぴたりとはまります。
7についても、これからは国際化の時代であり、外国との交流抜きには考えられないという視点から、英語教育の必要性を唱えられました。
それから110年も経った現代において、太田市が使えない英語を教える教育より使える英語教育をということで、国語と社会以外は全部英語を使う小中学校を開校するする運びとなり、それに触発される形で、足利でも英会話を教える授業を導入し始めましたが、それと比較すれば、友愛義団の先見性には驚かされるものがあります。
もちろん小さいころから英会話を教えることに関して色々な意見があることは承知しておりますが、是非論を言う前に私はそういう太田市のような取り組みは率直に評価したいと思います。選択肢を提供するということは様々に相対比較する上からも、関して前に、日本語をしっかりと教える必要があるという意見
また10につきましては、友愛義団設立以来110年の歴史を刻みながら、通5丁目の友愛幼稚園として脈々と受け継がれ、現在進行形で今に活かされています。
足利の繊維産業が隆盛を極めたおかげで、こうした世界に冠たる足利友愛義団を生み出せたということこそ、足利の3度目の天下取りとして、誇りうるものではないかともいえると思います。
こうして振り返りますと、かつての足利市はそれぞれの時代背景の中でそれぞれに魅力があり、鎌倉から室町にかけては武将が拠点を構え、そして同時期には足利学校に学徒が集い、そしてまた明治から昭和にかけては裸一貫で一旗挙げようと若者が夢を持って足利市を訪れてきたのです。
アメリカンドリームならぬ足利ドリームともいうべき時代が足利には確かにあったのです。
それが今ではどうでしょうか。
かつて繁栄した時代がうそのように、静まり返ってしまっているではありませんか。
いくらお祭りが成功しただの何だのと大本営発表のようにいっても、閑散とした商店街の姿が今の現状を雄弁に物語っています。
私は、是非ともかつての足利を今に復活させたいのです。そして足利のプライドを取り戻したいのです。
かつて全国にその名をとどろかせた足利の再興、これが今を生きる我々にかせられた大きな使命であると確信します。

12の提言

2005年時の12の提言はこちらです。

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